葬儀 葬式 北海道 札幌葬礼社 の日記
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札幌での自分葬 ?? 自分の葬儀を考えなければならない今どきの札幌葬儀事情。
2011.01.06
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今日も、自分の葬式のためにパンフレットが欲しいと電話がありました。
聞けば、ご子息も娘さんもいらっしゃるとの事。葬儀の依頼ではなく、緊迫した場面でもなく、最近圧倒的に多いのは、自分の葬式のための参考にしたいとの問い合わせです。
葬儀の予算には明らかに困ることのない、まだ元気な、お金と時間に余裕のある人達が自分の葬儀について熱心なように思います。しかも真剣です。自分の葬儀に備えを持つのは良いことです。やがては避けられない自分の死。
しかし、いかに自分史を書き上げ、正式に遺言したとして、その筋書き通りに運ばないのが人の世です。
せっかく作った死装束。着せるのは誰ですか?一生懸命作られた骨壷。強度は大丈夫ですか?骨箱と寸法は合いますか?散骨、樹木葬を考えても、先祖代々のお墓はどうするのですか?家族は善しとしても、親族から支持が得られるのでしょうか。極端ですが、もしもそのとき、日本が戦時下にあれば絵に描いた餅になります。まともに葬儀すらできるでしょうか。諸行無常。どんな最後を迎えるかすら誰にもわかりません。
昨今、やたらと自分の葬儀を考える事が流行っていますが、様々な事例を実際に経験している我々には奇異に感じます。
子供はあてにしない、出来ないは現実的に正しい判断かもしれません。
問題なのは余りにも葬儀を美化して考える風潮になっていると感じます。たとえば、かつて大ヒットした楽曲。たとえば、葬儀関係の、さる仕事を描いた映画。 葬儀は故人を偲ぶために執り行われる厳粛な祭事ではありますが、決してショーではありません。 「眠るがごとき安らかなお顔で・・」などは、ご逝去されたその時に、立ち会ってもいない司会者や葬儀委員長の言葉であって、本当は実に殺伐とした様であることは容易に推察いただけると思います。
当事者はもちろん、家族までが逼迫する事態に晒されます。大黒柱を一瞬にして失い、結果的に一家離散した例にも遭遇しました。
せっかくの人生です。自分の最期などを考えるのではなく、いかに最期まで健康に、凛と生きるかに時間を割いて欲しいものです。
尚、金銭的に余裕があれば、交通遺児の会などに寄付をして、積極的に社会貢献する道もあります。
酷寒、吹雪の中、今日も火葬場では葬列が続きます。
何日か前には笑った人がお骨となり、うなだれる時間もなく気丈な喪主を演じ、悲しみを押し殺し、遺されて不安な明日に怯える。これが、概ね葬儀の実態です。